【平安時代】静岡市の中学1年生向け!平清盛の政治と平氏の滅亡を詳しく解説!
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今回は、中学1年生で習う平安時代の内容のうち、平清盛の政治と源氏VS平氏の源平合戦を解説していきます。
最初に説明する平清盛は、ここ2回で解説してきた藤原道長、白河上皇に続いて日本を支配した人物です。
>>【平安時代】平安時代のはじまりと藤原氏の摂関政治を解説!
平清盛はどのように日本を支配したのか、そして何が原因で源氏に敗れてしまったのか。
その流れを詳しく解説していきますよ!
保元の乱
まず前回のおさらいを簡単にしていきましょう。
前回のおさらい
白河天皇は天皇の位を息子に譲って上皇となり、上皇という自由な立場から政治の実権を握る(=院政)
また、白河上皇は院の警備に武士を登用したため、武士の地位もさらに向上していった。
白河上皇の次に上皇になった鳥羽上皇も、引き続き院政を行いました。
しかし鳥羽上皇が亡くなったあたりから、政治の実権をめぐって朝廷内で対立が起こり始めます。
というのも、天皇の立場からしたら院政は面白くないんですよね。だって、政治の実権を握っているのは上皇ですから。
ということで、政治の実権をめぐって、天皇(後白河天皇)VS上皇(崇徳上皇)という争いが1156年に起こりました。
これが保元の乱です。
保元の乱では、天皇側に源義朝をリーダーとする源氏と、平清盛をリーダーとする平氏が参戦し、天皇側が勝利しました。
平治の乱
見事に勝利した後白河天皇でしたが、今度は朝廷内でも権力争いが発生します。
また、保元の乱では平氏と源氏のどちらも活躍しましたが、後白河天皇は平氏の方をより優遇していたため、平氏と源氏の仲も悪くなっていて、対立するようになっていました。
そして1159年、朝廷内の権力争いと平氏と源氏の対立が合わさり、平治の乱が起こりました。
平治の乱の結果、勝利したのは平氏側です。
源氏のリーダーであった源義朝は戦死し、息子の頼朝は伊豆(静岡)に流され、ここからは平清盛率いる平氏の支配力がどんどん増していきます。
平清盛の政治
平治の乱に勝利した平清盛は、1167年に武士として初めての太政大臣の位に就きます。
この部分はテストで問われることが多いので必ず覚えておきましょう!
太政大臣はふつう貴族しか就けない役職で、天皇に次ぐ偉い役職です。
さらに藤原氏と同じように、自分の娘を天皇と結婚させ、その子を天皇にすることで朝廷との関係を深め、平氏一族がさまざまな役職を独占しました。
また、平清盛は貿易にも力を入れます。
兵庫の神戸にあった大輪田泊という港を修復して、宋(中国)と貿易を行い、富を蓄えていきました(日宋貿易)。
このようにして、平清盛は政治や富を独占し、日本を支配していったんですね。
藤原道長、白河上皇と同じように、当時の平氏がいかに絶大な権力を握っていたのかを表す言葉があります。
「平家にあらずんば人にあらず」
意味:「平氏の一族でない者は人ではない」
このセリフは平清盛が実際に言ったわけではないのですが、こういったことが言われるくらい、当時の平氏の支配は強大だったわけです。
しかし、平氏一族だけが良い思いをするような独裁的な政治は、当然ほかの武士たちの反感を買います。
源平合戦と平氏の滅亡
平氏に対する不満が募り、諸国の武士が平氏を倒すために動き出します。
その中でも特に平氏に恨みを持っているのは源氏ですよね。そのため打倒平氏の動きの中心は源氏になります。
この時の源氏のリーダーは、かつて伊豆に流された源頼朝でした。
1180年に頼朝は挙兵して、次々に平氏との戦いに勝利します。
そして1185年、壇ノ浦の戦い(山口)で頼朝の弟の義経が平氏を滅ぼし、平氏政権は終わりを迎えました。
平清盛の政治と平氏の滅亡 まとめ
以上が平清盛の政治と平氏の滅亡までの内容になります。
平安時代の最後の権力者である平清盛と、彼が政治の実権を握るまでの流れをしっかり理解しておきましょう!
次回から、武士の時代である鎌倉時代がスタートします!
ぜひ楽しみにしていてくださいね!
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