【平安時代】平安時代のはじまりと藤原氏の摂関政治を解説!

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今回は、中学1年生で習う平安時代初期の頃の内容を解説していきます。

主な登場人物は『桓武天皇』『藤原道長』『藤原頼通』の3人です。

彼らがどういったことを行ったのか、流れといっしょに押さえていきましょう!

また、平安時代といったら今も愛される文学作品が生まれた時代でもあります。

『源氏物語』『枕草子』といった作品の名前くらいは聞いたことありますよね?

こういった現代まで伝わる文学作品が生まれた経緯もあわせて理解していきましょう!

平安時代のはじまり

平安時代のはじまりの前に、まず奈良時代の復習をしておきましょう。

奈良時代といえば、聖武天皇が活躍した時代でしたね。

聖武天皇は、即位当時の混乱した世の中を治めるために仏教の力に頼り、都の平城京に東大寺大仏を建てました。

この結果どうなったかというと、仏教勢力の力が強くなっていったんですね。それだけ仏教が重視されていた時代でしたから。

そして仏教勢力は政治にも口出しをするようになりました。

なんなら、道鏡どうきょうという天皇になろうとした僧侶も出てくるくらいでした。

桓武天皇と平安京遷都

このような時期に天皇になった桓武天皇は、仏教勢力が政治に口出ししてくるのを嫌って、794年に京都の平安京遷都せんとしました(都を移すこと)。

「鳴くよ(794)ウグイス平安京」は有名な語呂合わせですよね。

これが約400年間続く、平安時代の幕開けです。

その他に桓武天皇が行ったことで、覚えておきたいのは以下の内容です。

蝦夷征伐えみしせいばつ

桓武天皇は政治体制をより強くするため、東北地方までその支配を広めようとしました。

しかし当時の東北地方北部に住んでいた人々(蝦夷)は朝廷に従いませんでした。

そこで桓武天皇は、坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろという人物を蝦夷を征伐するための将軍、征夷大将軍せいいたいしょうぐんに任命して派遣し、東北地方への支配を広げることに成功しました。

藤原氏の摂関政治

平安時代になると法律などがしっかり整えられたため、天皇が幼かったとしても、特に政治に問題はありませんでした。

こうなってくると、政治の実権を握るようになるのは天皇ではなく貴族たちです。

そしてその貴族のなかでも、絶大な権力を握ったのが藤原氏一族でした。彼らは摂関政治を行うことで日本を支配していきます。

摂関政治とは

摂関政治とは、藤原氏が自分の娘を天皇の后(結婚させる)とし、生まれた子ども(孫)を天皇にして、天皇が幼いときは摂政、成人後は関白という役職に就いて政治を行うことです。

摂政と関白

摂政:天皇が幼少または女性の時に、政治の補佐をする役職

関白:天皇が成⼈後も政治の補佐をする役職

そしてこの摂関政治は、藤原道長とその息子頼通よりみちの時代に最盛期を迎えました。

道長は4人の娘を天皇のきさきにして、日本を自分の思うままに動かしていました。そんな彼が詠んだ歌があります。

藤原道長

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」

この歌の意味は、「この世は私のための世界のように思える。満月に欠けている部分がないように、この世の中で、私に足りていないものはないのだから。」となります。

こんな歌を詠んでしまうくらい、道長は当時の日本を自由自在に支配していたわけですね。

息子の頼通も同じく摂関政治で絶大な権力を握ります。

また、頼通は10円玉の表面に描かれている平等院鳳凰堂を建てた人物としても有名なので覚えておきましょう。

平等院鳳凰堂は、建物と建物の間が渡り廊下でつながれている『寝殿造』で有名ですね。

国風文化の芽生え

最初にも書きましたが、平安時代には今でも愛されている文学作品が生まれた時代でもあります。

これら文学作品の特徴としては、ひらがなやカタカナといった日本オリジナルの文字、かな文字で書かれていることですね。

このような、平安時代に芽生えた日本独自の文化を国風文化といいます。

では、どのようにして国風文化が発展していったのか。その流れを解説します。

遣唐使の廃止

聖徳太子が活躍した飛鳥時代に、進んだ中国(隋)の文化や制度を学ぼうということで、遣隋使が派遣されていましたよね。

これは奈良時代、平安時代になっても続いていました。

618年に隋は滅びて唐になったので、日本は遣唐使を派遣していました。

しかし9世紀後半(800年代後半)ごろから、唐の力が衰えて、国内の政治も乱れていきます。

そのような状況を見て、菅原道真すがわらのみちざね(学問の神様として有名ですね)が「衰えてきている唐に危険を冒してまで行く必要はない」と主張して、894年に遣唐使の派遣が中止されます。

「白紙(894)に戻す遣唐使」で覚えておきましょう!

遣唐使を廃止したので、中国の影響を受けなくなった日本では、貴族の生活や好みに合った文化が形成されていくことになります。

これが国風文化が誕生する経緯になります。

かな文字の発明と文学作品

国風文化といったら、なんといってもかな文字の発明です。

ひらがな・カタカナが生まれたことで、日本固有の感情を豊かに表現できるようになり、さまざまな文学作品が誕生しました。 

以下に覚えておくべき文学作品を挙げます。

源氏物語

紫式部が書いた小説ですね。

主人公の光源氏の生涯と恋模様を描いた長編小説です。

枕草子

清少納言が書いた随筆(自分の好きなことを好きなように書いた文)です。

「春はあけぼの」「夏は夜」「秋は夕暮れ」「冬はつとめて」から始まる文は非常に有名ですね。

三省堂の国語の教科書を使っている方は、中学2年生の国語で習いますよ。

古今和歌集

紀貫之きのつらゆきらが編集した歌集ですね。

ちなみに日本最古の歌集は『万葉集』で、これは奈良時代につくられましたよ。

平安時代のはじまりと藤原氏の摂関政治 まとめ

以上が平安時代のはじまりと藤原氏の摂関政治、国風文化の内容になります。

まずは平安時代をスタートさせた桓武天皇と、日本を支配した権力者、藤原道長・頼通を覚えておきましょう!

ただ、平安時代には藤原氏以外にもあと2人、日本を支配した権力者が登場します。

彼らついてはまた別のブログで解説しますので、ぜひ楽しみにしていてくださいね!

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